| 第30回全日本少年合気道錬成大会 | 08/07/21(月)17:43:21 |
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| 今年も東京九段にある日本武道館で、7月20日(日)「第30回全日本少年合気道錬成大会」が行われた。この記念ずべき佳節の第30回の大会に正勝会道場も参加することができた。 西大和会は今年で3回目となる。私が責任者となって二団体として参加できたことは非常に嬉しいことである。しかも、正勝会は豊中正泉寺道場の嶋本師範にお願いして誕生した道場であり、生まれて1年の成果をこの大会に結集させていただいた。 この引率には植田弐段・安田弐段指導員・山根一級指導員補佐が協力していただいた。 前日の19日は、横浜みなとみらい地区で観光を行い横浜で一泊し、東京九段の日本武道館に向かった。 たった2分間の演武のためにこの間子どもたちは稽古してきた。素晴らしい思い出を作れただろうか? この引率のため、休みを調整ししかも費用を払い参加してくれた指導員の皆様に感謝したい。 わが会は、合気道の修行を通じて人格向上を図る会である。 行事の引率者も参加者と同様にあるいはそれ以上にご負担をかけている。 それ故に、集団における行動とはどうあるべきか、あるいはその行事に一期一会の喜びを感じることができるか。修行者としてその意味を感じることができるか。 今回引率してくれたメンバーは本当の修行者たちであり、留守中道場の稽古を嬉々として守ってくれた方々も素晴らしい人たちである。 こうした指導者を子どもたちには目指してほしい。 | |
| 武道を社会に還元してしてこそ | 08/04/07(月)22:37:37 |
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| 我が会員の活躍が嬉しい。 武道を修行してやたらに腕力の強さを求めることは、それは正に野獣の強さである。 合気道は、誰でもが修行できる道でなければならないと思う。一人だけ強くなって修行の結果を残しても、それを誰にも伝えられなければ「道」とは言えない。 では、現在に於ける武道とは何だろうか。 生命を掛けた戦いの技法の中から、どうすれば戦いの中から勝ち残るのか。その為の身体の使い方を学ぶと同様に、相手と対した時に敵である相手をどう把握するか。 そして、自身の置く場をどうするか。ついには、敵の行動を見切り悠々と超越して生きていく。 開祖が「このおのずからなる運動自然法則を肚におき、臨機応変、自在に己を円転せしめることが大事である」といわれた。 こうした生き方は、自身の内面の完成と同時に社会に己のそれぞれの使命実現へとむかわせることとなる。 平成6年から親子3人でわが道場に入会された冨岡將人さん(現在合気道参段)は、奈良県庁に勤められ、現在も忙しい中時間を作り、道場に通って来られている。 この四月、奈良県の教育長に就任された。 四月三日付けの奈良新聞で「知力、体力も大切だが、それ以上に子どもたちには忍耐力を身につけてもらい、正々堂々と生きていける子どもたちを育てたい」と抱負を語っておられる。 私は、冨岡さんが息子さんと共に道場に通い、黙々と修行の姿を示されているその姿を見させていただいた。 合気道を稽古することによって心の内面的成長を図ることを、この抱負の言葉があらわされている。 忍耐力を身につけ正々堂々と生きる子を育てることに、今後は全力で努力していかれると思う。 嬉しいことである。合気道の精神を社会に還元してほしい。 | |
| 明日に生きる武道者として | 08/01/01(火)19:16:04 |
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| 新しい年を迎えた。 それぞれがこの節目の初頭に自身を問い、思い描く未来の姿を見つめておられることと思います。 おのおの変えがたい今この時を最大に生ききることが、自身の使命を果たすことであると私は思っています。 日常とは対極にある闘争の世界の中で生まれた武道は、まさに生きるための最大限の手立てでした。 いかに生きるか、いかに勝つかそれを究極まで見つめぬいたところに日本武道の姿が存在しています。最高に勝つことは争わないで生きることそしてなお自身の生き方を変質しないことがテーマだと思います。 合気道は、そのことを「相手を同化してしまう」こと、開祖は合気道の技法で「われが動けば技になる」と表現させています。 哲学的にいえば、相手より高い境涯の自身となること、技術的には相手と対峙した時、絶対的に勝てる立場を維持することではないかと考えられます。稽古はそのためにこそ汗するものでしょう。 そして何よりも、稽古の場が自分の周りの日常の嫌なことから解放され、そこに集まり汲めども尽きぬ生きる糧を得る場としていきましょう。 我々は、常に「明日に生きる武道者」であることを自覚してまた、この一年を楽しい合気道人生を進んでいきましょう。 | |
| 自らを律していこう | 07/10/02(火)23:38:06 |
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| 子どもの指導の時間に、ある指導者から厳しい指摘を受けた。 厳しい躾をとの保護者の要望などと複合して子どもの指導とあいまって不適切な言葉を発してしまったことに対してである。 深く反省させられた。 二代目道主吉祥丸先生の指導を思い出した。 「わが子をあえて合気道の門をくぐらせた父親・母親の期待するところも…その際ひとつ気をつけなければならぬのは、父親・母親のある種の偏った過大な期待にまどわされぬように留意すべきだという問題である。…過度の”力信仰”への期待感を」 といわれ、合気道の究極は「和」と「愛」をもって理想とするところの求道的な「気」の武道であり、心身とくに心の練磨練成を通じて人間的・人格的完成へと導くことをめざす「行」の道であるからである。と結ばれている。 故に指導者も、自身を律し、子どもの指導に当たっては稽古を通じて、気力、気迫を会得させ、自然に落ち着きや自信、協調性を心にしっかりと根付くようにしていく心構えが大切だとこのことを通じて認識させられた。 また二代目吉祥丸先生は、礼儀・礼節について 「礼儀・礼節は武道の信条であるが、合気道は、修行者を外面的に厳しく縛る戒律を掲げるなどのことをせず、あくまでも修行者個々の内面における自発的かつ自律的な実践志向を尊重する行き方、いいかえれば修業をもって修業者個々の自覚的な「行」と解するものである。」 と言われている。 わが道場はこれらの精神で子どもの指導をすることを信条にしようと誓った。 私自身、自信をこのことによって律していきたい。 指摘して頂いた指導員の方にお礼を申したい。 | |
| 佐々木の将人先生の講習会 | 07/09/28(金)00:03:37 |
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| 9月23日(日)和歌山大学武道館で行われた南海合気会の主催の佐々木の将人先生の講習会に参加した。 武産館の川崎弘徳先生から、ご案内をいただいた御厚意に応えてお伺いさせていただいた。 大学生クラブと和歌山周辺の師範そして過日お世話になった須磨先生、また中今塾の西守先生にもお会いでき、楽しい講習会の交流を果たすことができました。 留守を守っていただいた、篠原さん、金光君、浦井さんそして池端先生ありがとうございました。 様々の交流の場に会の代表として、皆さんが交流しやすい環境を今後も作っていきたいと思っています。 そして、私に続く指導者のメンバーが今後、会を代表して稽古会に参加できるようにしていきたいと思います。 今回の講習会では、呼吸法の重要性をまた再認識させていただいた。相手が握っている相手の力を一点と考えること。 そのことによって相手を自由にすることができる。 得てして握られている相手の力も実はその中心は一点であること。即ち力の根源は、一点にあること。 円には中心があるようにそのことを時としてわれわれの体は忘れてしまう。 そして、呼吸法が技と表現せず法であるといわれる所以ー即ち合気道の習得すべき根源である。 そんなことを考えさせられた。 昭和40年合気道の道を求め、今年で私も60歳の佳節を迎えた。学生時代に、大先生にお会いして強烈な感動を得たあのときからすでに四十数年となった。 講習会で佐々木先生が、「この中で大先生にお会いしたことのある人は」との問いに私だげが挙手した。 これだけの会場で私だけかと思わず思った。 そういえば、もう60歳なのだと納得した。いつまでも進歩していない自身への反省と80歳の佐々木先生への親しみが増した。 まだ20年あるのだ。合気道は一生の修行、会員の皆さんと共に精進していきたい。 この機会を与えていただいた川崎先生、須磨先生、西守先生にこの場をお借りしてお礼を申し上げたい。 合掌 | |
| 恒例の夏期合宿 | 07/08/19(日)21:29:56 |
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| 恒例の夏期合宿が、無事に終わりました。 高取国際高校の約30人のメンバーと私達の会約30名強合計70名の合宿。 奈良の天川の中学校の体育館をお借りして、日頃で道場ではできない稽古と様々の人との研鑽によって合気道の更なる広がりを一人ひとりが、実感したのではないだろうか? この合宿の成功に高取国際の奥村先生や顧問の先生方や、幹事の篠原さん・植田さんそして東京の調布から参加していただいた西部多摩川合気会の北川太一先生ありがとうこざいました。 全ての参加者の合気道を求める真摯な姿が、今回の合宿を成功に導いた因となりました。 八尾南から初めての参加になりました谷○さん、畔○さんどうでしたでしょうか。また、ギターをもってやってきたアメリカ人Sさん、夜のミーティングでは、魅力的なジャズの数々、で皆を楽しませてくれました。 稽古では、太刀取り、短刀取り、二人掛けと日頃道場では、できない稽古を次々と行いました。少し消化不良になったかもしれませんが、これほどの多様性を持つ合気道の姿から、その全ては、合気道の中心となる入り身、転換、呼吸力からが発生しているということを学んでいただきたいと思いました。 私の代わりに指導時間を持っていただいた北川元昭五段、池端先生もその役割を担っていただきました。 「勝つとは、己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである」と開祖が言われいます。 天川の大自然の中で端座して、自己の心を広げた修行の時を自身の心に焼き付け、日常の生活の中で自己の使命を果たしていきたいものです。 | |
| 礼をもって礼に答える | 07/08/05(日)23:05:41 |
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| 7月28日、私の恩師の豊中正泉寺道場に子供の部のメンバー54名と 引率の指導員と保護者13名の計67名でお伺いした。 師は、私達のために道場を開放していただき、また大切な本堂にまで使わせていただいた。 身を正し、心を落ち着け修行することの大切さを教えていただいた。 座ること、礼の仕方そのことによって他人を敬い、物の尊さを諭された。 合気道が求める真髄は、争いにあるのではなく、相手を敬い相手と和するの道であることを、 その技法を通じて説明された。 技の多さをもとめることでもなく、派手さを求めるのでもなくまた、自身の心を開くことが、 合気道の修行であると。 いつもは、なかなか落ち着きのない子ども達も、心に響いたのか。背筋を伸ばし脱力した腕を膝にやり、自身の本当の力を気づいたようだった。 争うという思いが、心や身体を不自由にすること、自由に動けるところをどう発見するかが、合気道の修行の要諦であることを学んだようだ。 人間は、礼を知る動物である。この経験を、道を求めている人に伝えるのも人間である。 礼をもって、礼に答えることが、我々の修行の一つでもある。 合掌 | |
| 自分の顔は、他人のためにあるということ。 | 07/07/23(月)22:54:32 |
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| 自分の顔は、自分の目で見ることはできない。また、自分が発した言動もどのように他人に聞こえているか、本当のところはわからないのである。 他人に向ける嫌な表情や視線、その顔の表情は、直接自分が見つめることはできないのである。 人間は、自分というものを「他人という鏡」を通してしか知ることができない。アメリカの社会学者クーリーはこのことを「鏡に映った自我」(Looking−Glass Self)と呼んでいる。 自分の顔や言動は、本当のところは他人に与えるものであることを考えなければならない。 小学生を中心にする稽古は、稽古前後の礼を大切にしている。自然に相手に対する自身の姿を美しく飾ることを学んでいる。武道を学ぶ所以は、自身の身を守ることに他ならない。 しかし、子供達が中学生に達する頃になると稽古の礼の言葉「お願いします」「ありがとうございました」を素直に言わなくなる。また、注意をしても時として表情を曇らせる。 子供達が、自らの人格形成のために今までの与えられた役割を自ら疑問を持ち、一つの枠を抜け出し、自身の内的動機から本当に合気道をやりたいと考えるかどうかの転換期である。 それまでに私達は、稽古の中で培われた礼を日常の生活まで、また社会人としてどういう意味をもつのか感じ取れる人間となってほしいと祈るものである。 他人に対する柔和な表情や態度は、自身を守るものであり、合気道の技法の根本は、相手との調和であり、攻撃する相手を導き、争いの世界を消滅させることである。 他人に向けた自らの顔を正し、自身を美しく飾る稽古を子供達に教えていきたい。 故に「躾」とは指導者にむけられ言葉である。 | |
| 子供と合気道 | 07/06/13(水)16:04:32 |
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| 「子供の時間の方が神経が疲れるものですね。役所勤めがあるのに、どうやってこんな毎日を続けてこられたのですか?」という質問があった。 子供の指導は確かに疲れる。 合気道で何を教えるか、どう教えるか。どこまで教えるか。 それは、教える大人側に問いかけられている。 昭和53年、大阪の豊中から奈良県の香芝市(当時はまだ香芝町)に転居した。 恩師、嶋本先生の道場を離れ香芝市総合体育館を借りて合気道をスタートさせた。 部員は最初たったの3人。今は香芝高校の教諭であり、元県立高取高校合気道部を創設した黒松君(当時高校生)と山田君だ。そして、子供たち。稽古日には畳を敷き、体育館の2階の窓から入会者を待ったものだ。 そんな時期が、十年ほど続いた。それでも大人の入会者は殆どいなかった。 入会者はいつも子供だった。いつまでたっても子供相手だけなので虚しい気持ちもあったが、通って来てくれる子供たちのため、そして自分のためにも始めた合気道をやめるわけにいかない。教える対象は子供だが、僕はその子供を育てることに専念した。 子供は、こちらの気持ちを敏感に察知する。僕の欠点がそのまま増幅して子供の合気道に反映する。 受身の指導の手を抜くと、その時期教えた子供は一様に受身が下手であり、入り身投げの最後の一歩を出さない入り身投げをやると直しようのない技となってしまう。 子供は5年単位で集団が入れ替わるので、30年合気道を教えてきたが、その時々の私の合気道の欠点がよく分かるのである。 だから子供の時間は真剣にならざるを得ない。時として大人の時間よりも子供の時間を大切にしないといけない。 私も子供の時間を人任せにしたくなることがある。しかし子供の稽古は、自分の基本の引き出しをどれだけ持っているか、あるいは持ってきたか、を試されていると感じている。 答えになっていないかな。 | |
| 素晴らしい出会い | 07/06/10(日)23:28:46 |
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| 6月10日、堺市光明池の中今塾にお伺いした。西大和会の我々を暖かく迎えていただいた西守先生を始め、塾生の皆様にお礼を言いたい。 会員の皆様もきっと楽しい思い出になったことだと思います。 ある「参加者の一人」から「合気道はその人間の人格を反映している思う」という言葉がありました。この言葉は大きな意味を持っていると思います。 武道における「強さ」をどう考えるか。 またそのための合気道に於ける「稽古」をどう考えるか。 争いの瞬間ーそれは自分が持っているものを最大限に発露しなけれならないーその時我々はたった一人で相手と対峙する。 自己と相手といわば同時に対峙することになる。 一方、「稽古」は本当には、その一瞬を試してはならない。 それでは死合ということになってしまう。相手も自己と同じ生きなければならない人間である。 その大事な体を使わしてもらって稽古させてもらう。だからこそ、稽古相手に恵まれることは素晴らしい出会いなのである。 私たちは、交流の稽古会を通じてそうした相手に出会うのである。 交流しない組織は停滞し、一人よがりになってしまう。交流し、自己の精神の枠を広げていく時、技は進歩し人格も高くなっていく。ひとつひとつの行事の中で合気道を進めてまいりましょう。 | |
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